2011年2月13日日曜日

現実とは幻影のことだったんやな~。

こんなタイトルつけると、また変なこと書くんやろなとお思いでしょうが、人生の基本の話なんであえて書いてみます。もうとっくに知っている人もいるとは思いますが・・・。
現実っていうと、みなさんが思うには確固たるものがあって、自分の力では簡単に思うように変えれずに、あくせくあたふたして立ち向かい、開拓していくもののようにお思いだと思います。私も学生時代に好きな音楽ばかり聞いていると、「もっと現実を見つめて、勉強しなさい」とかよく言われました。社会に出ても、理想とかに走ると「もっと現実的になれ」とか言われますが、現実ってじゃあいったいなんなんって思いますよね。
たとえばここに鉛筆が1本たっているとします。横から見ると縦長の長方形の棒です。でも、真上から見ると6角形(もしくは丸)のかたちをしたものに見えます。斜めから見れば台形に見えたりします。つまり鉛筆を見ても見る角度で形が変わって見えるという事です。それぞれは正しいことを言っており、それぞれにとってその形は現実です。つまり確固たる鉛筆という真実があるのですが、見る人の位置や見方や価値観で現実は全く違った形で認識されるということです。これは、普段の会話でも同じで、同じ文章を読んでも取り方が千者万別です。
このように、現実とはその人にとって、特別なその人のみの現実なのです。
もっと突き詰めていうと、目で見た現実というのは、光が何か反射するものに当たって返ってきた光が、目を通って視神経に入り、頭の中で映像に変えているだけです。もし、人間がX線で物を見る構造になっていれば、人はみんな骸骨に見えますし、赤外線で見れば、人は温度分布の地図に見えます。見る手段によっても、同じ人を見たときに違うものに見えてしまうのです。
人は頭で映像化されたり、イメージ化されたことを現実として見ているのですから、夢とか妄想もその人にとっては、現実と変わりないプロセスで体験されています。
 とかく人は目に見えるものが現実と錯覚しがちですが、自分の周りの世界というのは絶えず移り変わるエネルギーの渦みたいな状態です。ただその一面を限られた方法で認識しているにすぎないということですね。
このことから言えることは、確固たる現実なる物などなく、見る人の意識状態で万華鏡のように変わってしまうというのが現実です。つまりイリュージョン・幻影ですね。
つまり私たちは幻影を見て現実と錯覚している生き物です。
そろそろそのことに気が付く時期かもしれません。
では現実を変えるのはどうしたらいいかわかますね。
自分自身を変えればいいのです。
自分の考え方・価値観を変えれば、現実は一瞬に変化します。
やってみてください。面白いくらいすぐに変わります。
また自分と現実の関係は、ちょうど鏡を見ているようなものです。
鏡に映った自分の顔を変えようと思ったら、鏡に化粧してもだめですよね、自分自身にお化粧をしますね。つまり、自分を変えれば、自分が見ている現実も変わるということです。
ですから、世の中を変えるって簡単なことなんですね、自分自身を変えればいいです。
他人を変えようとするから問題が生じます。誰もが自分の好きなように生きたいわけですからね。
そして他人の現実は、決して他の人が変えることができません、影響を与えたとしても最終的にはその人が変えるのです。
このことから、人は現実の創造主ということになります。

80億人いれば80億の現実があり、集合意識という形でお互いにシェアしています。
また、量子力学では、並行宇宙という概念があり宇宙は一つではなく、意識するものの数に応じて増減するという考えが主流になりつつあります。意識と物質の関係も、インドのヴェーダの知識との接点が述べられています。「人の命は地球よりも重い」という言葉がありますが、まさにこの理論にびったりの言葉ですね。

さて、現実の創造主である皆さん。現実を変えるのがいかに簡単かお分かりいただけたかと思います。明日から自分だけの素敵なマイ現実をさっそく作りましょう。ただ、一片の迷いもなく信じれるかが問題かな?今まで岩のようにためてきた本当か嘘かわからないような価値観がきっと邪魔をするでしょう。残念でしたね!  この文章、否定的にとるか肯定的にとるかは自由ですよ!

5 件のコメント:

  1.  難しいことはわかりませんが、こうゆう考えには惹かれるものがあります。
     唯識論の阿頼耶識という考えが最も近いのでは。
     小難しいことを言うようですが、別に仏典や哲学書を読んだわけではありません。わたし、三島由紀夫の大ファンで豊穣の海四部作を読めばこの考えがわかります。特に第4部の「天人五衰」。
     深遠な、しん様の上記に近い考えが小説を借りてのべられているわけですから、私のようなものでもおぼろげながらわかります。
     しかしこのような認識論には恐ろしい陥穽があることもこの中に述べられています。
     小説の中のたとえで一番感銘を受けたのは、一本のろうそくのたとえでした。炎は生成消滅を繰り返しているが、一本のろうそくの炎に間違いはない。それは人の意識と対比した時、同じではなかろうかと。常に生成消滅を繰り返すものとして意識を一つ一つ切れたものとして量子的、しかし、連続的にとらえると考えればいいのでしょうか。
     長くなるので、この辺でやめます。
     

    返信削除
  2. やまさん一番乗りありがとうございます。実はわたくし仏教はほとんど勉強してませんです。小説もほとんど読んだことがなく三島由紀夫とか聞くとかっこいいな~とは思うのですが。3行か、1ページくらいで結論が出る文章でないと読むことができません。精神世界で唯一学んだのはヴェーダ学のさわりだけです。理論は今もよくわからないけど、TM瞑想で実践は積んできました。機械的な方法で想念の源が体験できるなら僕にピッタリだと思ったからです。自分の意識でその場を実際に体験する、そのあと知識をつけてフォローしてきました。まだまだ啓発には至ってませんが、ゴールを知っていることは、達成したも同じことだという理論もあります。
    この世で唯一真実があれば、「全てが変化すること」だという見方もあります。創造と破壊、そしてその繰り返しを維持している変化するという質、または認識者と認識の対象、そしてそのプロセス(見方)、これら3つの要素の関係で現実は作られているみたいです。神が自分自身に気が付くとき創造が始まりました。自己回帰が創造の原点みたいです。それは人間にも出来る能力です。

    返信削除
  3. 久しぶりにブログのチェックをしました。
    面白い記事を書かれていますね。是非続けてください。
    yamasan、しんさまの頂上対談のようで面白いです。

    返信削除
  4. コメありです。WHOちゃんと飲み会では不思議と一言もしゃべってないな~。なんでやろ~。とりあえず、この文章では、女性受けしないことが判明。現在接点模索中。

    返信削除
  5.  いえいえ文字にはしないだけで私も不謹慎なことは考えます。大震災でみんなまっとうな聖人ばかりになったみたいで、道に外れたことを言うだけで袋叩きですわ。
     都知事が文の中で「天罰」と使っただけで非難される。人間の考えは「自由」なのにね。
     宇宙から見れば貧乏ゆすりにもならないこの地震
     いろいろ考えさせられます。
     枠をはめて考えたくないですね。

    返信削除