2012年3月31日土曜日

私とあなたの関係.

   前回が「私」がテーマでしたので、今回は「あなた」にしてみます。同様に「あなた」をwikiで調べてみると、「あなたは二人称の人物を呼ぶときに使う言葉。また指示語の一つで、かなたにあるさま。こなたの対義語。」とあった。結構文学的ですね。「こなた」なんて今時使ってないよな~。とりあえず、「二人称」を調べてみると、「二人称(ににんしょう)とは、人称の一つで、受け手(聞き手や読み手)を指す。対称とも呼ぶ。一般に数の区別がある。」とありました。なんかイライラしてきたのでもう調べるのはやめにします。単純に対称のことみたいですが、「対称」だと関係性のことになると思うので、「対象」にします。そして、その対称が人間であれば、その人から見た主観が生まれるので、それを「客観」とします。

  つまり、「私とあなた」の関係は「主体と客体」そして「主観と客観」の関係ということにします。
この関係の中で、問題となるのが物理的か精神的どちらの関係かで見方が違ってくるということです。まず、物理的関係の場合、「あなた」は別に人間でなくて「物」でもいいわけです。私という肉体と物との関係です。通常の関係は光を媒介とし、表面上の状態を見る関係ですが、物事には表と裏の関係が必ずあることを忘れてはいけません。私という肉体の中には精神という裏が存在します。そして、対称の物の中には「名」というその物を存在せしめるための虚の本質があり裏の役割を担っています。つまり精神が名を認識する、裏が裏を認識する事により、表の物質世界が成り立っています。つまり人間の内面なくして外面は存在しえないということです。見るものと見られるものの関係、それは裏(主観=認識者の内面)と表(客体=物の外面)の関係だったんです。これらの関係は前回説明した時空間を表すψ1.ψ2の世界の次の次元のψ3.ψ4の世界、これが「私と物との関係」の世界で、主観の対称性が現れた世界です。この4つの次元が等化してくるとψ5という自己が形成されている空間領域が完成し、人間の内面と外面が統合します。

  次に、「物」が「あなた」だとどうなるかですが、まあ同じことですが、「名」の部分が、「あなたが見ている世界」ということになりますね。つまり、私が通常見ている世界は、外面上は知覚正面の世界のみですが、他人が見ている世界は、私が決して見ることができない他人の裏側にある虚の世界ということになります。このように他人が見ている世界は、自分が見ている世界の裏側だったということです。昔からある「カゴメの歌」に{後ろの正面だあれ?}というくだりがありますが、他者側からみた私の姿のことです。この空間をψ6といい、ψ5の裏側に見えてくる空間領域のことです。ψ5とψ6は、人間が自己と他者と呼んでいるものの関係と同じです。そして、自己の外面(物質世界)に囚われて、自己の内面が生み出せなかった意識は、他者における人間の内面へ落ちて行ってしまった意識ということができます。つまり、自己の主体性を確立することができず、完全に他者化してしまった自己です。この状態を溶融作用といい、反定質が生じる原因となる作用のことで、位置の等化と位置の中和を対化として持つことが出来ていない状態です。あらゆる悪の根本はこの溶融作用にあり、ψ5とψ6が逆転して働いてしまうというような状態です。

シリウスからの情報では、

  「1999年に冥王星が海王星の軌道の外側に再び戻ってから、位置の等化が始まっています。2012年には位置の中和が始まり、2013年に位置の変換が開始されます。
「位置の変換」とは、位置の等化ψ5と位置の中和ψ6を行った後に生まれるシリウスの調整作用です。空間の曲率が主体の質点側に反転してしまうことを意味します。たとえば、一つの対象を複数の人間が取り巻いている状態を想像してみしょう。現在の私たちの意識では対象が一つで、それを見ている主体が多数いるという風に見えていますが、位置の変換が起こり始めると進化の方向性が顕在化するために、それらの関係性が反転した空間も見えてきます。つまり対象が一つならば、主体も一つのものとして感覚化されなければいけないと感じてくるのです。この感覚によって人間の外面性によって見出されていた個我の位置、つまり身体の位置はほとんど意味を失い、自我は自然に消滅していきます。」
と、言うことです。すごいな~。!!!

P.S. シリウスからの高次元幾何学の知識は、冥王星を通して太陽系次元に調整されてから、日本の半田広宣という物理学者へ、一種の観念の記号のようなものでコード化されて送られ、潜在意識下で組み立てられています。1930年に冥王星の存在が確認されてから、地球への関与、すなわちシリウスのハーヴストプログラムが開始されています。太陽系の冥王星とは次元観察子Ψ11、つまり元止揚のことで、人間の肉体に含まれたものとして存在しています。シリウスから見れば肉体はマクロコスモスであり、冥王星は神経系統に相当する部分すべてに対応しているとのことです。


私とは?

  「私とは何ぞや?」とは、よくある哲学的命題で、古来から最大の謎とされてきた事ですから、論ずるのもおこがましく、解ったと思った人はいるけど、ほんとうにわかった人は誰もいないような気がします。そう言う私も解っていないので、語るのも再度おこがましいのですが、4月から新年度も始まり、新たな対人関係を迎えるに当たり、ここらで整理しておかないと大変なことになりそうなので、とりあえず暇なのでやってみます。

  まず、「私」をWikipediaで調べてみますと、公私の関係が定義されていたのにはびっくりしました。通常「私」の反対は「公」なんですね。これって単に法的な解釈のためにできた概念のような気がするのですが、まあいいです。公私混同はいけないというのは、ごもっともです。
  さて、私が興味あるのは哲学上の私です。哲学というとなんか非現実的で難しい事っばっかり言っているやつかとか思われるかもしれませんが、こちらの私のほうがよっぽどリアリティがあり大切なことの様に思います。まず、ウィキペディアが言うには、

「私とは、全ての事物を意識するその始まりである。これにより、物事は一歩を歩み始める。対象を認識する前に、その対象を意識したそれが、私である。」

と、ありました。な~んだ!神様のことじゃん。終わり(^o^)/



2012年3月28日水曜日

念仏とお経と音楽

昨日まで、念仏とお経は同じものだと思っていました。しかし、ウィキで調べてみますと、

念仏とは、「今日一般的には、浄土教系の仏教教団において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。」とあります。

お経とは「釈迦が説いた教えを記録した仏教の聖典のこと。教義をまとめたものを「経」(経蔵))、修行法や戒律に関するものは「律」(律蔵)、経を注釈したものは「論」(論蔵)と呼ばれ、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼ぶ。「経典」という場合、狭義には「経」のみを指すが、広義には仏教典籍全般を指す。その意味では「仏典」と同義である。」とあります。さらに、「代表的な経典としては、法句経、阿含経、般若経、維摩経、涅槃経、華厳経、法華三部経、浄土三部経、金剛頂経などが挙げられる。」とあります。

ふむふむ、な~んだ。さっぱりわからん!いやちょっとわかった!

念仏は、信者の姿勢のこと、お経は教義のことやな。

同じと思っていたものが、全く違っていた!人生とはこんなものです。誤解の連続です。
いやしかし共通点はあるぞ、どちらも言葉を声に出して読むじゃん!
そういえば、葬式とか法事で坊さんがいい声で拝んでいたよな~なんかメロディーつけて歌っていた人もいたな、浪曲か詩吟かなんか知らんがたしか曲になっていたな~?
私はその時思いました。これは邪道じゃ!自己顕示もええとこやな!(^^)!

さて、そんな私の主観より、この念仏とお経の意味とか効果はいったい何ぞや?と思ったことはありませんか?高いお金出して坊さん呼んで、何が起こって何がどうなっているのか?果たして亡くなった方や、生きている私たちにいったいどんなことが起きているのか、はたまた・・・・?

一つ言えることは、どちらも言葉の羅列ですね。言葉には「音」と「意味」の領域がありますが、まず音的には「南無阿弥陀仏」は日本語では(なむあみだぶつ)です。サンスクリット語ではnamah amurita budhi (ナマハー・アムリータ・ブッディ)で意味は(不滅の叡智に帰依します)っていう感じでしょうか。お経はヴェーダの聖典とか、ブッダが話した内容を弟子がまとめた経典なので、多種多様いっぱいあります。それも音訳・意訳入り交えて、音的には原文のサンスクリット語やパーリー語からだいぶかけ離れた物もあります。意味はそれぞれのお話なのでそれぞれです。

そこでですが、このお経や念仏を意味を知って唱えている人はいるのでしょうか?という疑問です。かなり疑問に思っていたんで、数年前に霊山時のお経売り場の人に聞いたら、「意味は知らんでもええ!」とか言ってた様な言わなかったようなで、実はわからないのですが、実際にお経など特に意味を解って読んでいる人はほとんどいないように思います。それは僧侶であっても同じで、まして解釈の仕方が千差万別ですから、そもそも解りようがないですね。念仏の方は、たった6文字の言葉なので、意味を感じながら拝めばいいので簡単というか、一般庶民にもできる非常にユースフルな方法論だと思います。

そこで、新たな疑問ですが、意味を考えず又は解らずに音だけ言葉にして発して、はたして効果はあるのですか?という疑問です。ここまで来ると「言葉」というものの本質論まで発展してしまいますね。言葉は対象から自分に投げかけてくる一つの意識の流れで、認識者である主体が世界を構築する上でなくてはならないツールです。「形あるもの音があり言葉となり現れ意味をなす」ですね。ということは、モノの方から投げかけてくるわけですから、きっと決まった音があるんでしょうね。たとえば日本語で「春」のことを、英語では「spring」、サンスクリット語では「Vasantah」と言いますが、どれが本当の音、またはそれに近い音なのでしょうか?そんなことは解るわけがありません。きっとすべての国の人が、「わが母国語が近いにきまっとる」と言うでしょうね。これは意識が五次元空間に入った時点で、きっと解ることでしょう。

さて、私たちは通常、音楽を聴くとき音の流れや音色は聞いても意味はあまり考えていませんね。たまに歌詞が耳に入ればそれについて考え、あれやこれやの考察が始まりますが、特に歌詞がなければ、純粋に音のみでの感触となります。その場合、長三度の音であれば明るく、短三度の音であれば暗い感じになると思います。コードであればメジャーコードであれば明るく、マイナーコードであれば暗く、という風にですが、これは万国共通の感性みたいですね。

ここで考察ですが、言葉もしくは言語、想念というものが、意味のない音、形のない音のみの世界だとどうなるかということです。意味の世界に縛られないため、音の流れのみとなるはずです。それは、自分に合っているのか合っていないのか、好きか嫌いかの判断が出てくるはずですね。通常の音楽を聴いたときの反応です。音楽の反応というのは、その音(波動)が聞いた本人にどう影響するかという所でしょうね。人間自体も固有の周波数を持っていますから、その固有振動数に合う合わないといったところが、好き嫌いに現れるのではないでしょうか?そして、音楽の場合はその好き嫌いで個人が選択して聞けばいい話ですが、お経や念仏の場合はそうはいかないですね。この言葉を拝みなさいですからね。この押しつけがましい意味のわからない音に、何の効果があるのか?ですよね。でもこれって実は瞑想の効果と同じだと思います。意味のレベルに縛られない音が放たれると、心は宙に浮いたような状態になり、自然と想念の源の方向へ引き寄せられます。それは重力によって物が落ちるかの如くです。なぜならば心の本質がそうだからです。心の本質とは、絶えず魅力ある方向、幸福を拡大する方向に向かうということです。想念の源がなぜ魅了的であるかですが、それは永遠、不偏、絶対性、無限、自由、至福など、この世の二元性を統一した価値が凝縮した領域だからです。物理学でいえば統一場のことですね。このように意味のない音を利用して、心を想念の源へ誘う方法論をマントラヨーガまたはラージャヨーガと言います。ヨーガとは心を一つに縛るという意味で、マントラは真言、ラージャは王道という意味です。

このように、意味のレベルで縛られた音は、表面上の粗雑な思考活動の域を出ませんが、意味のない音に注意を寄せますと、たとえばきれいな風景を見ながら風の音を聞くとか、滝の流れの音を聞くとかしますと、何故か心が洗われるようなすがすがしい気分になりますよね。

ということで、念仏・お経・音楽これすべて瞑想であった。これで結論とさせていただきます。





2012年3月26日月曜日

スマホ変えました。

先月、妻のスマホのカメラのレンズ内側が部分的に汚れが出てきたのでDocomoショップに行ったところ、新品に交換してくれました。その間私は暇なので、隣のauショップで話を聞いていたのですが、なんとauにキャリアを変更すると、キャッシュバックのみならず月々の支払いも半分くらいになることがわかり、さっそく次の日に手続きしました。

詳細は、「家族ペアでMNP(他社から乗り換え)スマートフォン2台ご契約で最大90.000円キャシュバック」というすごいチラシ文句でしたが、実際はもとすごい割引でした。というのは「ともこみ学割」とか言うのがあり、家族の一人でも学生証があれば、「3年間基本使用料無料!」で、さらに「パケット定額料が2年間1.050円引き」なんですね。スマホ本体はXperia であれば、2年間使用すれば無料どころか230円くらいお金が余るので、パケット定額料からさらに引いてくれるとのことでした。
結論として、ただで¥68.250するSony Ericsson のXperia をもらって、三年間支払料金が今docomoの約1万円から半額の5千円以下に下がるというものでした。結局、キャッシュバックは「ともこみ学割」のキャンペーンの分の2万円と、ペア加入キャンペーンの1万円が加算されて、現金で11万円渡してくれました。そのほかにも帰り間際に、何故か一人5.000ポイントくれたりして、当初2か月は契約事務手数料の3.000円くらいで済みます。月々の割引額を3年間総計してみますと、二人で120.960円でした。もらったスマホの値段は2台で136.500円で、現金11万円と合わせますと、総額367.460円の儲けでした。契約に費やした時間約2時間ですから、時給183.750円でした。このような高額の時給を得たのは初めてです。携帯電話の壮絶なキャリア争奪合戦が生み出したおいしい話でした。

さて、このように愛用したスマホをまだ使えるのに、ころころ変える行為はけしからんと御叱りを受けるかもしれませんが、経済的なメリットと新しいものが使える喜びや好奇心が上を行き人は動いてしまうのですね。結果としては、前のGalaxy のほうが、圧倒的に画面はきれいです。なんせSUPER AMOLED Plusという有機LED採用ですからね、おまけに傷が付きにくく耐久性の高い「ゴリラガラス」をディスプレイに採用しており、全く傷は付きませんでした。CPUはデュアルコアCPUでサクサクです。

それに引き替え今度のXpedia は、画面若干小さく普通の液晶です。ガラスは柔らかくすぐに傷がつきました。CPUはシングルですが、スピードはそんなに気になりません。使用感は良く、横に少し細い分、手になじみやすく持ちやすいです。バッテリーの持ちはよくGalaxyのより容量は少ないのですがアプリの関係かCPUがシングルの為か二日くらい持つこともあります。その点Galaxyはバッテリーの持ちは悪く、一日持たない日もあるし、samsung の嫌なアプリが標準で入っており、消したくても消せません。

結論として、両者とも一長一短ありますが、しばらくはXparia を使おうと思っています。半年もすれば堪能しますので、その頃にはau の iphone 4S に変えてみようかと思っています。この機種はメモリが16Gのであれば、現在も2年間の縛りで、実質無料です。スマホの本体は実質無料であっても、必ず2年間の縛りと分割払いをくっつけてきますから要注意ですね。

人の煩悩の一つである物への執着は、良いのか悪いのか? 昔の機械を壊れるまで使うというのは、愛着、エコ、経済の観点から称賛されるようですが、言ってみればそれも執着の一つの形態であり、新しい機種に変えるのも同じことのように思います。ちなみに前のGalaxy 2台はオークションで完売しました。docomoへ違約金2万円と機種代金の8万円を合わせて10万の出費でしたが、半分は回収できました。このように物が作られ売れて回りまわって経済が生きいきしてくるんですよね。市場経済主義という宗教に洗脳された現代人の世の中で生きていく為には、このような方法しか無いのでしょうかね?
  

2012年3月25日日曜日

煩悩


  前から気になっていた言葉「煩悩」、仏教用語で身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言う。「智慧」というあまり使わない漢字がでてきましたが、よく聞く言葉ではありますね。さらに調べると「般若」と同義語みたいですが、こわいお面となんの関係があるのかなと思っていいたら、あの有名な般若心経の般若でした。パーリー語の:पञ्ञा; paJJaa パンニャの音写ですが、、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧のことみたいです。悟り(さとり)は知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言うとあります。な~んだ、ただの気づきじゃん!ということは、煩悩とは気づきを妨げるものだということですね。気づきを妨げるものということは、私たちを騙し続けるものという事なので、やはり煩悩というやつは捨てたほうがいいものなんですね。よく言う「煩悩を無くする」とか「煩悩を捨てる」というやつですね。


  さて、では具体的に煩悩とはいったいなんなんだという疑問ですが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちであるとのことで、いい加減な概念やな~なーんだこりゃ?
とりあえず、「三毒」なるものが代表ということで、「貪欲」「瞋恚」「愚痴」らしい。


貪欲とは、万の物を必要以上に求める心である。
瞋恚とは、怒りの心である。
愚痴とは、真理に対する無知の心である。


  この三つ、良く考えると最近の私の心境と同じですね。

必要以上に物を買ったり集めたりしています。
上司や組織、社会や文明にまで怒りをぶちまけてます。
真理に到達出来ていません、わからないことだらけです。


  この中でも、愚痴(愚癡)、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものであるとあります。

十二因縁とは、

十二支縁起の要素

無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。
識(しき、巴: viññāna, 梵: vijñāna) - 識別作用
名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。
触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
受(じゅ、vedanā) - 感受作用。
愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛。
取(しゅ、upādāna) - 執着。
有(う、bhava) - 存在。
生(しょう、jāti) - 生まれること。
老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。

これらの「無明」すなわち、迷いが愚痴(癡)らしいです。

良く考えると、普通の生活をしていてこれらを迷いを無くすることは不可能でしょう。
というか、生きる原動力のような気もします。
全ての煩悩を捨てるとどうなるのでしょうか?
生きる意味が無くなるような気がしますが、気のせいでしょうか?


2012年3月11日日曜日

タカヒマラ

  「タカヒマラ」と言われると、日本人はたぶん「高天原」を連想すると思いますが、ちょっと意味が違うみたいです。タカヒマラとは宇宙創造の鋳型のようなものです。次の図がそれです。

タカヒマラ・テンプレート

  二つの螺旋が作り出す間の領域の一つ一つにψ1~ψ13までの記号が示してあります。
これは以前説明した次元観察子のことです。つまり宇宙の全体性は13の次元で構成されており、このタカヒマラには二つの力の流れが存在していますから、全部で26の次元が存在していることになります。

  一つは、プレアデスからオリオン、つまりψ1からψ13へと向かう力の流れで、もう一つがその反対方向ψ13からψ1へと向かう流れです。この相対的な二つの流れのことを定質性質と呼んでいます。私たちの神話で言えば、定質とはイザナギノミコト、性質とはイザナミノミコトのことです。詳しく言えば、イザナギとはタカヒマラに生み出された13の次元を持つ定在波を相殺していく働きを持つもので、イザナミは新たな定在波を作り出していく働きを持っています。13の凪でイザナギ、13の波でイザナミです。

  古事記によれば、イザナギイザナミとは高天原に生み出された第5番目の男女神に当たり、この二人の神が天の御柱で交わることにより、三貴子と呼ばれるアマテラスとスサノオとツキヨミが生まれたアマテラスは太陽のことで、スサノオは地球ツキヨミは月のことです。つまり、定質は男性原理の力で、性質が女性原理の力です。定質と性質はタカヒマラにおける進化の力とその反映の力の関係にあります。それは私たちが星座でオリオンプレアデスと呼ぶものの関係のことです。

  人間とは、タカヒマラにおいて、性質が生み出されている状態を意味します。つまり、人間はオリオンからプレアデスに向かう力によって作り出されているという事です。そして、オリオンとプレアデスは、いわば神と人間の関係に相当します。宇宙の最も根本的な二元性は神と人間のことを言うのです。

  さて、タカヒマラが律動していくためには、定質と性質だけでは不十分で、もう一組の二元性が必要です。この二元性はタカヒマラの中に起きている反響のようなもので、それぞれ反定質反性質と呼ばれます。つまり、定質と性質の反対側に生まれている力で、人間が現在意識と呼んでいるものです。定質と性質はタカヒマラの内面に存在しており、反性質と反定質はタカヒマラの外面側にあるものです。これら四つの力はある一定の周期が巡ってくると飽和状態を迎え、新しい定質の力と方向性を作り出していきます。これが人間の意識進化のことで、人間に覚醒が起こると、人間の意識は定質と性質に分化し、タカヒマラが顕在化を起こしていきます。反性質として働いていた意識は定質へと変えられていき、反定質の方は性質に変えられていきます。前次元でいえば、この両者はアトランティスの次元とムーの次元の関係に相当します。第7太陽次元を作り出した文明のことです。これら二つの文明は位置の転換を起こすことによって反映を失ってしまったのです。位置の転換作用とは、新しく生み出された人間次元を交差するためのシリウスの最終調整のことを言います。位置の転換が起こると、太陽系は再びオリオンとプレアデスによる二元化された動きを持つように活動を始めます。ムーやアトランティスと呼ぶ超古代の文明は、前次元においてシリウスの関与により生まれた変換人の文明であり、変換・転換が完全化すれば、文明はその反映をすべてなくしてしまいます。つまり、タカヒマラ自体が方向を変えることにより、その内部に構成されていた次元律動のすべてが、一斉に方向を反転させてしまうということです。これを次元の交替化と言います。タカヒマラの内面と外面がその役割を交代するということです。

  当初お話した「高天原」は何ぞやとお思いでしょうから説明しておきます。タカマガハラとは人間に覚醒が起きた時の表性のことです。表性とは人間の最終構成が作り出された時に、第三番目の次元として発見される空間のようなものです。今から私たちが見出す新たな空間領域とでも言っておきましょう。表性は新しい次元構成を送り出していくための最初の位置となります。

  神話と高次元科学が融合したような話で、こじつけか只のフィクションと取られるかもしれませんが、かなり論理的整合性があるので面白いですね。  これで、現実が一瞬にして変わってしまうという論理の仮説が成立したとおもいます。嘘かほんとかわかりませんが今年の暮れに起こるみたいなので、乞うご期待といったところですね。\(^o^)/

2012年3月7日水曜日

善と悪

  ちょっと前では、ある政治家の方が、自分の発言が正義だとかおっしゃっていましたし、正義は裁判所が決めることみたいに理解している人もいらっしゃるようにも見受けられます。一般の人のほとんどは、自分は正義だと思って行動していると思いますし、まれに自分は悪の権化だと理解している方もいらっしゃるみたいです。

  さて、人は行動する時に絶えず善悪を考えて行動しているわけではなくて、習慣とか合理性とか効率性とか、あえて非効率性で自分のスタイルを自動的に構築し考え行動しているように思います。そして、いざ他人にそれを指摘されたり否定されると自らの保身に走り、あれこれ理屈をこねまわして自分を正義に導こうとしますし、気の弱い人は逆に自己嫌悪に陥りへこんでしまいます。

  善悪とはマクロ的に見ますと、人間の意識が進化の方向性に沿っているか、反しているかだと思うのですが、その方向性を明確に示せない現状では判断のしようがないというのが現状だと思います。ましてや、この二元性の真っ只中にある人類が、自らの存在理由も宇宙の存在理由もわからないまま生きているのでは、価値判断が出来ないのは当たり前のことで、善悪の判断など出来るわけがありません。そもそも、善悪は見る人の価値観でひっくり返ってしまう代物ですから、そういう観点から見ると幻でしかない事にもなります。

「世の中に絶対的な善悪などない」と考えたほうが合理的というか、納得がいきます。
「すべての事象は中立である、それに意味を持たせるのは人の意識の方向性である。」とした方がすっきりしていいですね。

  しかし、これだと裁判所は困るだろな~(^o^)/


2012年3月4日日曜日

BONNIE PINK

  この前のミュージック・ステーションで、3年ぶりにBONNIE PINKが出演すると新聞のTV欄に書いてあったので、見ました。なかなかタイトでいい曲歌っていました。メロディーはちょっと歌謡曲ぽくていまいちですが、演奏が若干パンクっぽい感じでいいノリしています。生音に近いエレキギターの音は結構ドライブ感があって乗りがいいです。Amazonでチェックすると、デビュー以来、BONNIE PINKの曲のプロデュースを手がけているスウェーデンのプロデューサー、トーレ・ヨハンソンがこの曲もプロデュースし、自らギターとベースも演奏しているとのことでした。曲が彼っぽくないので意外に感じましたが、作詞・作曲はbonnie pink 自身ですので納得しました。
  歌詞はいつもの通りあまり気にしないのですが、サイトで検索していると出てきたので載せておきます。なかなか元気の出る歌詞です。南海フェリーの乗り場の犬とダブりました。

【BONNIE PINK】【冷たい雨】歌词

作词:BONNIE PINK
作曲:BONNIE PINK

打たれてぶたれて 冷たい雨に
けれどこの血は まだ熱いんだ
打たれてぶたれて 身も心も
叫ぶ 尚更 まだ生きたくて

真っ直ぐに伸びたナツツバキ
迷わずに上に向かってく
器用じゃないけどひた向きに
働く背中を見せたくて

くたびれて干いてる心に
chilly chilly rain(冷たい冷たい雨)
ざけんなって言いたいよ
残りの力で

打たれてぶたれて 冷たい雨に
けれどこの血は まだ熱いんだ
振られて降られて この寒空に
募る想いは まだ冷めなくて

火曜日に舍てた 思い出ごと
ここにない愛はいりません
欲しい物は自分で買えばいい
甘えていられるほど若くない

ハンデも无し 男社会で
silly silly war(馬鹿なくだらない戦争)
負け知らず
そんな奴にこそ勝ちたくて

打たれてぶたれて 人に社会に
けれどこの血は へこたれなくて
打たれてぶたれて 冷たい雨に
叫ぶ 尚更 ただ生きたくて

旧式のハート錆び付いたら
磨いて使う それは得意 女ですもの

打たれてぶたれて 冷たい雨に
けれどこの血は まだ熱いんだ
振られて降られて 冷たい雨に
叫ぶ 尚更 ただ生きたくて
ただ生きたくて
ただ生きたくて
まだ生きたくて