「私とは何ぞや?」とは、よくある哲学的命題で、古来から最大の謎とされてきた事ですから、論ずるのもおこがましく、解ったと思った人はいるけど、ほんとうにわかった人は誰もいないような気がします。そう言う私も解っていないので、語るのも再度おこがましいのですが、4月から新年度も始まり、新たな対人関係を迎えるに当たり、ここらで整理しておかないと大変なことになりそうなので、とりあえず暇なのでやってみます。
まず、「私」をWikipediaで調べてみますと、公私の関係が定義されていたのにはびっくりしました。通常「私」の反対は「公」なんですね。これって単に法的な解釈のためにできた概念のような気がするのですが、まあいいです。公私混同はいけないというのは、ごもっともです。
さて、私が興味あるのは哲学上の私です。哲学というとなんか非現実的で難しい事っばっかり言っているやつかとか思われるかもしれませんが、こちらの私のほうがよっぽどリアリティがあり大切なことの様に思います。まず、ウィキペディアが言うには、
「私とは、全ての事物を意識するその始まりである。これにより、物事は一歩を歩み始める。対象を認識する前に、その対象を意識したそれが、私である。」
と、ありました。な~んだ!神様のことじゃん。終わり(^o^)/
昔から難しい哲学的問題ですね。いろいろな視点から考えられますね。
返信削除言語から考えると、英語はご存知のように私は「I]以外ありません。これは見事なくらい徹底しています。乞食だろうが王様だろうがみんな「I]、
対する日本語はもう無数、俺、わらわ、愚僧、拙僧、みども、わい、僕、朕・・・
思うに日本語は世間・社会に対する関係で「私」を規定してます。英語のようにたった一つの「I]はないですね。
それだけ日本では「私」は「内に向かうものでなく」「外から規定定義されるもの」という意味が強いような気がします。
ただし、英語のような「I]も日本では考えられています。瞑想の宗教、禅などでは「我」を考えます。「我」というと一般的には利己的と思われて嫌われますが、禅ではそんな意味じゃないですね。英語の「I]に近いものだと思います。
もちろんしんさまのおっしゃるのは後者の「私」ですが、現実に暮らす我々は常に前者の「私」から逃れられませんよね。私のなどは早々と(わかいうちに)その分裂に苦しみ、世捨て人として生きる道を選びました。というのはかっこいい言い訳です。
さて、後者の「私」ですが、2つ考えましょう。
一つは「絶対者」に対するただ一つのものとしてその前に存在する「私」
もう一つは全く何もないところに唯一存在する自分。
て・・またぐだぐだ書いて、しんさまうんざりしてると思います。スパムの可能性もありますので、今朝はこの辺でやめます。
何を言いたいのやらわからん!お許しください。
やまさん結構考察してたんですね。
返信削除よく考えるとやまさんは煩悩をかなり捨ててますよね。
物欲、所有欲、金欲、権力欲、性欲?、生存欲、潔癖欲?かなりの物をお捨になっている、現代聖の権化のような気がしてきました。
さてこの投稿、最初は「私とあなたの関係」として書いていたんですが、「私」のところだけで結論っぽいことになってしまったのと、夜遅くなって眠たくなったので、「私とは?」にして終わらせました。「あなた」=you がでてくると、話がさらにややこしくなるので、追って考察してみます。(^.^)
かなり難しい自我論の一種だと思うのですが「唯識論」というのがあります。私も興味があり知りたいと思いますが理解は進んでいません。
返信削除ごく簡単な概論はこれで知られますから、参考に覗いてください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識論のご紹介ありがとうございます。
返信削除聞いたことはあったんですか、あまり深く追及していませんでした。潜在意識の取り扱いがおもしろそうですね、ユングの理論と合わせて研究してもいい様に思いました。(^.^)