昨日まで、念仏とお経は同じものだと思っていました。しかし、ウィキで調べてみますと、
念仏とは、「今日一般的には、浄土教系の仏教教団において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。」とあります。
お経とは「釈迦が説いた教えを記録した仏教の聖典のこと。教義をまとめたものを「経」(経蔵))、修行法や戒律に関するものは「律」(律蔵)、経を注釈したものは「論」(論蔵)と呼ばれ、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼ぶ。「経典」という場合、狭義には「経」のみを指すが、広義には仏教典籍全般を指す。その意味では「仏典」と同義である。」とあります。さらに、「代表的な経典としては、法句経、阿含経、般若経、維摩経、涅槃経、華厳経、法華三部経、浄土三部経、金剛頂経などが挙げられる。」とあります。
ふむふむ、な~んだ。さっぱりわからん!いやちょっとわかった!
念仏は、信者の姿勢のこと、お経は教義のことやな。
同じと思っていたものが、全く違っていた!人生とはこんなものです。誤解の連続です。
いやしかし共通点はあるぞ、どちらも言葉を声に出して読むじゃん!
そういえば、葬式とか法事で坊さんがいい声で拝んでいたよな~なんかメロディーつけて歌っていた人もいたな、浪曲か詩吟かなんか知らんがたしか曲になっていたな~?
私はその時思いました。これは邪道じゃ!自己顕示もええとこやな!(^^)!
さて、そんな私の主観より、この念仏とお経の意味とか効果はいったい何ぞや?と思ったことはありませんか?高いお金出して坊さん呼んで、何が起こって何がどうなっているのか?果たして亡くなった方や、生きている私たちにいったいどんなことが起きているのか、はたまた・・・・?
一つ言えることは、どちらも言葉の羅列ですね。言葉には「音」と「意味」の領域がありますが、まず音的には「南無阿弥陀仏」は日本語では(なむあみだぶつ)です。サンスクリット語ではnamah amurita budhi (ナマハー・アムリータ・ブッディ)で意味は(不滅の叡智に帰依します)っていう感じでしょうか。お経はヴェーダの聖典とか、ブッダが話した内容を弟子がまとめた経典なので、多種多様いっぱいあります。それも音訳・意訳入り交えて、音的には原文のサンスクリット語やパーリー語からだいぶかけ離れた物もあります。意味はそれぞれのお話なのでそれぞれです。
そこでですが、このお経や念仏を意味を知って唱えている人はいるのでしょうか?という疑問です。かなり疑問に思っていたんで、数年前に霊山時のお経売り場の人に聞いたら、「意味は知らんでもええ!」とか言ってた様な言わなかったようなで、実はわからないのですが、実際にお経など特に意味を解って読んでいる人はほとんどいないように思います。それは僧侶であっても同じで、まして解釈の仕方が千差万別ですから、そもそも解りようがないですね。念仏の方は、たった6文字の言葉なので、意味を感じながら拝めばいいので簡単というか、一般庶民にもできる非常にユースフルな方法論だと思います。
そこで、新たな疑問ですが、意味を考えず又は解らずに音だけ言葉にして発して、はたして効果はあるのですか?という疑問です。ここまで来ると「言葉」というものの本質論まで発展してしまいますね。言葉は対象から自分に投げかけてくる一つの意識の流れで、認識者である主体が世界を構築する上でなくてはならないツールです。「形あるもの音があり言葉となり現れ意味をなす」ですね。ということは、モノの方から投げかけてくるわけですから、きっと決まった音があるんでしょうね。たとえば日本語で「春」のことを、英語では「spring」、サンスクリット語では「Vasantah」と言いますが、どれが本当の音、またはそれに近い音なのでしょうか?そんなことは解るわけがありません。きっとすべての国の人が、「わが母国語が近いにきまっとる」と言うでしょうね。これは意識が五次元空間に入った時点で、きっと解ることでしょう。
さて、私たちは通常、音楽を聴くとき音の流れや音色は聞いても意味はあまり考えていませんね。たまに歌詞が耳に入ればそれについて考え、あれやこれやの考察が始まりますが、特に歌詞がなければ、純粋に音のみでの感触となります。その場合、長三度の音であれば明るく、短三度の音であれば暗い感じになると思います。コードであればメジャーコードであれば明るく、マイナーコードであれば暗く、という風にですが、これは万国共通の感性みたいですね。
ここで考察ですが、言葉もしくは言語、想念というものが、意味のない音、形のない音のみの世界だとどうなるかということです。意味の世界に縛られないため、音の流れのみとなるはずです。それは、自分に合っているのか合っていないのか、好きか嫌いかの判断が出てくるはずですね。通常の音楽を聴いたときの反応です。音楽の反応というのは、その音(波動)が聞いた本人にどう影響するかという所でしょうね。人間自体も固有の周波数を持っていますから、その固有振動数に合う合わないといったところが、好き嫌いに現れるのではないでしょうか?そして、音楽の場合はその好き嫌いで個人が選択して聞けばいい話ですが、お経や念仏の場合はそうはいかないですね。この言葉を拝みなさいですからね。この押しつけがましい意味のわからない音に、何の効果があるのか?ですよね。でもこれって実は瞑想の効果と同じだと思います。意味のレベルに縛られない音が放たれると、心は宙に浮いたような状態になり、自然と想念の源の方向へ引き寄せられます。それは重力によって物が落ちるかの如くです。なぜならば心の本質がそうだからです。心の本質とは、絶えず魅力ある方向、幸福を拡大する方向に向かうということです。想念の源がなぜ魅了的であるかですが、それは永遠、不偏、絶対性、無限、自由、至福など、この世の二元性を統一した価値が凝縮した領域だからです。物理学でいえば統一場のことですね。このように意味のない音を利用して、心を想念の源へ誘う方法論をマントラヨーガまたはラージャヨーガと言います。ヨーガとは心を一つに縛るという意味で、マントラは真言、ラージャは王道という意味です。
このように、意味のレベルで縛られた音は、表面上の粗雑な思考活動の域を出ませんが、意味のない音に注意を寄せますと、たとえばきれいな風景を見ながら風の音を聞くとか、滝の流れの音を聞くとかしますと、何故か心が洗われるようなすがすがしい気分になりますよね。
ということで、念仏・お経・音楽これすべて瞑想であった。これで結論とさせていただきます。
念仏とは、「今日一般的には、浄土教系の仏教教団において合掌礼拝時に「南無阿弥陀仏」と称えることをいう。サンスクリット語では"buddha-anusmRti"で、仏陀に対する帰敬、礼拝、讃嘆、憶念などの意。」とあります。
お経とは「釈迦が説いた教えを記録した仏教の聖典のこと。教義をまとめたものを「経」(経蔵))、修行法や戒律に関するものは「律」(律蔵)、経を注釈したものは「論」(論蔵)と呼ばれ、経・律・論を合わせて「三蔵」と呼ぶ。「経典」という場合、狭義には「経」のみを指すが、広義には仏教典籍全般を指す。その意味では「仏典」と同義である。」とあります。さらに、「代表的な経典としては、法句経、阿含経、般若経、維摩経、涅槃経、華厳経、法華三部経、浄土三部経、金剛頂経などが挙げられる。」とあります。
ふむふむ、な~んだ。さっぱりわからん!いやちょっとわかった!
念仏は、信者の姿勢のこと、お経は教義のことやな。
同じと思っていたものが、全く違っていた!人生とはこんなものです。誤解の連続です。
いやしかし共通点はあるぞ、どちらも言葉を声に出して読むじゃん!
そういえば、葬式とか法事で坊さんがいい声で拝んでいたよな~なんかメロディーつけて歌っていた人もいたな、浪曲か詩吟かなんか知らんがたしか曲になっていたな~?
私はその時思いました。これは邪道じゃ!自己顕示もええとこやな!(^^)!
さて、そんな私の主観より、この念仏とお経の意味とか効果はいったい何ぞや?と思ったことはありませんか?高いお金出して坊さん呼んで、何が起こって何がどうなっているのか?果たして亡くなった方や、生きている私たちにいったいどんなことが起きているのか、はたまた・・・・?
一つ言えることは、どちらも言葉の羅列ですね。言葉には「音」と「意味」の領域がありますが、まず音的には「南無阿弥陀仏」は日本語では(なむあみだぶつ)です。サンスクリット語ではnamah amurita budhi (ナマハー・アムリータ・ブッディ)で意味は(不滅の叡智に帰依します)っていう感じでしょうか。お経はヴェーダの聖典とか、ブッダが話した内容を弟子がまとめた経典なので、多種多様いっぱいあります。それも音訳・意訳入り交えて、音的には原文のサンスクリット語やパーリー語からだいぶかけ離れた物もあります。意味はそれぞれのお話なのでそれぞれです。
そこでですが、このお経や念仏を意味を知って唱えている人はいるのでしょうか?という疑問です。かなり疑問に思っていたんで、数年前に霊山時のお経売り場の人に聞いたら、「意味は知らんでもええ!」とか言ってた様な言わなかったようなで、実はわからないのですが、実際にお経など特に意味を解って読んでいる人はほとんどいないように思います。それは僧侶であっても同じで、まして解釈の仕方が千差万別ですから、そもそも解りようがないですね。念仏の方は、たった6文字の言葉なので、意味を感じながら拝めばいいので簡単というか、一般庶民にもできる非常にユースフルな方法論だと思います。
そこで、新たな疑問ですが、意味を考えず又は解らずに音だけ言葉にして発して、はたして効果はあるのですか?という疑問です。ここまで来ると「言葉」というものの本質論まで発展してしまいますね。言葉は対象から自分に投げかけてくる一つの意識の流れで、認識者である主体が世界を構築する上でなくてはならないツールです。「形あるもの音があり言葉となり現れ意味をなす」ですね。ということは、モノの方から投げかけてくるわけですから、きっと決まった音があるんでしょうね。たとえば日本語で「春」のことを、英語では「spring」、サンスクリット語では「Vasantah」と言いますが、どれが本当の音、またはそれに近い音なのでしょうか?そんなことは解るわけがありません。きっとすべての国の人が、「わが母国語が近いにきまっとる」と言うでしょうね。これは意識が五次元空間に入った時点で、きっと解ることでしょう。
さて、私たちは通常、音楽を聴くとき音の流れや音色は聞いても意味はあまり考えていませんね。たまに歌詞が耳に入ればそれについて考え、あれやこれやの考察が始まりますが、特に歌詞がなければ、純粋に音のみでの感触となります。その場合、長三度の音であれば明るく、短三度の音であれば暗い感じになると思います。コードであればメジャーコードであれば明るく、マイナーコードであれば暗く、という風にですが、これは万国共通の感性みたいですね。
ここで考察ですが、言葉もしくは言語、想念というものが、意味のない音、形のない音のみの世界だとどうなるかということです。意味の世界に縛られないため、音の流れのみとなるはずです。それは、自分に合っているのか合っていないのか、好きか嫌いかの判断が出てくるはずですね。通常の音楽を聴いたときの反応です。音楽の反応というのは、その音(波動)が聞いた本人にどう影響するかという所でしょうね。人間自体も固有の周波数を持っていますから、その固有振動数に合う合わないといったところが、好き嫌いに現れるのではないでしょうか?そして、音楽の場合はその好き嫌いで個人が選択して聞けばいい話ですが、お経や念仏の場合はそうはいかないですね。この言葉を拝みなさいですからね。この押しつけがましい意味のわからない音に、何の効果があるのか?ですよね。でもこれって実は瞑想の効果と同じだと思います。意味のレベルに縛られない音が放たれると、心は宙に浮いたような状態になり、自然と想念の源の方向へ引き寄せられます。それは重力によって物が落ちるかの如くです。なぜならば心の本質がそうだからです。心の本質とは、絶えず魅力ある方向、幸福を拡大する方向に向かうということです。想念の源がなぜ魅了的であるかですが、それは永遠、不偏、絶対性、無限、自由、至福など、この世の二元性を統一した価値が凝縮した領域だからです。物理学でいえば統一場のことですね。このように意味のない音を利用して、心を想念の源へ誘う方法論をマントラヨーガまたはラージャヨーガと言います。ヨーガとは心を一つに縛るという意味で、マントラは真言、ラージャは王道という意味です。
このように、意味のレベルで縛られた音は、表面上の粗雑な思考活動の域を出ませんが、意味のない音に注意を寄せますと、たとえばきれいな風景を見ながら風の音を聞くとか、滝の流れの音を聞くとかしますと、何故か心が洗われるようなすがすがしい気分になりますよね。
ということで、念仏・お経・音楽これすべて瞑想であった。これで結論とさせていただきます。
宗教論と音楽論の考察、ただただ感心しながら読ませてもらいました。
返信削除しんさまは過去にこのようなことに関して深い教養を得られているんですね。
分析は全くおっしゃる通りですね。
ちょっと、視点を変えて、やまさんお得意の中世の庶民から見ると、お経は深遠な真理を述べたもの、でもちんぷんかんぷん。念仏称名は庶民が口にすることで救われる、弥陀への呼びかけ、とこのようなものではなかったかと思うのです。
「経」はそもそもはブッダの教えを論じたもの、一般の人がどれだけ真理を論じてもそれは「論」であって「経」にはならず、「経」はブッダのみと聞いたことがあります。
他に口に出していうもので重要なものがあります「真言」です。
「・・・ノウマクサンマンダラ・・」
とかいうあれですね。これは経と云うより呪文です。もともと仏教はそのようなものを排したはずですが、空海あたりからこのような真言・呪文を用いるようになっています。行きつくとこらは邪教「真言立川流」、これは気色の良い、いや違った、気色の悪い流派ですが、いや、いらぬことを申しました。
さてその真言宗ですが「声明」という、日本中世音楽に入れてよい音楽(声楽)があります。不思議な声楽で、聞いた印象は
これこれ、まさにしんさまの上記のブログ中のこの感じですよ
『・・・この押しつけがましい意味のわからない音に、何の効果があるのか?ですよね。でもこれって実は瞑想の効果と同じだと思います。・・』
この「声明」は、堂の荘厳ではあるが薄暗い光、燃える火、高価なお香、などとともに聴かれ、人々を宗教的法悦をもたらします。
歴史上、若い真言僧のある意味セクシィーな「声明」にどれだけの女がコロリとなったでしょう。
こんなことを考えるとGSやロックの音楽と似てますね。
ここでちょっと思ったんですが、しんさまは若い美貌の真言僧の生まれ変わりでは?
宗教音楽論にくわしそうですし・・・・
なんかまともな受け答えのコメントになっていませんね、ごめんなさい。
真言立川流ですか、知ってたら入会したのになぁ!声明って言うのもあったんですね!と言うことは、あの時の坊さんはこれだったんですか、納得しました。(^_^)
返信削除お久しぶりです♪ゆゆかです(^-^)/
返信削除覚えてるかな???
実に面白い世界感ですね(^^)d
私は、無神論者だけど見方によっては興味深い!!
しんさまの柔軟な頭が羨ましいφ(゜゜)ノ゜
あららァぁ~!ゆゆかさんじゃん!
返信削除久しぶりですね。
お元気でなによりです。
ブログ読んでくれてるんですね!
そういえば昨日何かの拍子にゆゆかさんのブログをクリックしたのですが、それが伝わったのかな?
きっとそうでしょうね(^_^)