前から気になっていた言葉「煩悩」、仏教用語で身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働きを言う。「智慧」というあまり使わない漢字がでてきましたが、よく聞く言葉ではありますね。さらに調べると「般若」と同義語みたいですが、こわいお面となんの関係があるのかなと思っていいたら、あの有名な般若心経の般若でした。パーリー語の:पञ्ञा; paJJaa パンニャの音写ですが、、仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた「さとり」の智慧のことみたいです。悟り(さとり)は知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言うとあります。な~んだ、ただの気づきじゃん!ということは、煩悩とは気づきを妨げるものだということですね。気づきを妨げるものということは、私たちを騙し続けるものという事なので、やはり煩悩というやつは捨てたほうがいいものなんですね。よく言う「煩悩を無くする」とか「煩悩を捨てる」というやつですね。
さて、では具体的に煩悩とはいったいなんなんだという疑問ですが、実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちであるとのことで、いい加減な概念やな~なーんだこりゃ?
とりあえず、「三毒」なるものが代表ということで、「貪欲」「瞋恚」「愚痴」らしい。
貪欲とは、万の物を必要以上に求める心である。
瞋恚とは、怒りの心である。
愚痴とは、真理に対する無知の心である。
この三つ、良く考えると最近の私の心境と同じですね。
必要以上に物を買ったり集めたりしています。
上司や組織、社会や文明にまで怒りをぶちまけてます。
真理に到達出来ていません、わからないことだらけです。
この中でも、愚痴(愚癡)、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものであるとあります。
十二因縁とは、
十二支縁起の要素
無明(むみょう、巴: avijjā, 梵: avidyā) - 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。
行(ぎょう、巴:saṅkhāra, 梵: saṃskāra) - 志向作用。
識(しき、巴: viññāna, 梵: vijñāna) - 識別作用
名色(みょうしき、nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。
六処(ろくしょ、巴: saḷāyatana, 梵: ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。
触(そく、巴: phassa, 梵: sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。
受(じゅ、vedanā) - 感受作用。
愛(あい、巴: taṇhā, 梵: tṛṣṇā) - 渇愛。
取(しゅ、upādāna) - 執着。
有(う、bhava) - 存在。
生(しょう、jāti) - 生まれること。
老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。
これらの「無明」すなわち、迷いが愚痴(癡)らしいです。
良く考えると、普通の生活をしていてこれらを迷いを無くすることは不可能でしょう。
というか、生きる原動力のような気もします。
全ての煩悩を捨てるとどうなるのでしょうか?
生きる意味が無くなるような気がしますが、気のせいでしょうか?
しんさま仏教にかなり傾倒しているのでは、と呼んでいて思いましたが、傾倒ではなく客観的に見ようとしているんですね。
返信削除私も仏教概論の本を引っ張り出し、読み直しましたが、さすが語句が難しいので、全部忘れてました。
この本もしんさまの言ってることと同じことをだいたい言ってますね。
私の本では「知恵」「涅槃」を「仏性」と表現していて、「仏性」を覆い包むのが「煩悩」だと、
「煩悩」、漢字で表現されると意味が取れやすい反面、その漢字の意味に引っ張られ本当の「煩悩」概念がわかりづらくなりますね。
だから、「煩悩」は『煩い(わずらい)、悩む』という意味にとってしまっていました。
ところがこの仏教概論、英語の対訳がついてるため英語で見ると「煩悩」、defilements(複数形に注意です)、これは「けがす、よごす」の名詞形です。以外でしたね。
でも「知恵・涅槃」あるいは「仏性」を覆い、曇らすものだから「けがす、よごす」の名詞形を当てるのはなるほどと思いました。
ただし、英語の場合、説明に応じて「煩悩」訳を変えます。
次にこの「煩悩」二つに分けて「知性の煩悩」「感情の煩悩」としています。そしてその二つの根本は「無明」と「愛欲」
ここまではしんさまの前半と同じですね。私もそこまで理解しました。
ですが、コメントが長くなりすぎるので後半の理解の勉強は日を改めて、やります。
結局私の本も同じことを別の言い回しでいっていると思います。
しんさまのブログが良い刺激になってまた詳しく勉強できそうです。
やまさん早速のコメントありがとうございます。
返信削除おっしゃる通り、最初と最後で結論が逆になりそうになっていますので、客観的というかさらに意味深な状態に出来たのではないかなと思いました。
悟りを求めても悟れば退屈なのか至福なのか?ですが、現在の人類を見ますとやはりみなさん悟ったほうがいいような気がします。(^.^)