さて、人は行動する時に絶えず善悪を考えて行動しているわけではなくて、習慣とか合理性とか効率性とか、あえて非効率性で自分のスタイルを自動的に構築し考え行動しているように思います。そして、いざ他人にそれを指摘されたり否定されると自らの保身に走り、あれこれ理屈をこねまわして自分を正義に導こうとしますし、気の弱い人は逆に自己嫌悪に陥りへこんでしまいます。
善悪とはマクロ的に見ますと、人間の意識が進化の方向性に沿っているか、反しているかだと思うのですが、その方向性を明確に示せない現状では判断のしようがないというのが現状だと思います。ましてや、この二元性の真っ只中にある人類が、自らの存在理由も宇宙の存在理由もわからないまま生きているのでは、価値判断が出来ないのは当たり前のことで、善悪の判断など出来るわけがありません。そもそも、善悪は見る人の価値観でひっくり返ってしまう代物ですから、そういう観点から見ると幻でしかない事にもなります。
「世の中に絶対的な善悪などない」と考えたほうが合理的というか、納得がいきます。
「すべての事象は中立である、それに意味を持たせるのは人の意識の方向性である。」とした方がすっきりしていいですね。
しかし、これだと裁判所は困るだろな~(^o^)/
しかし、これだと裁判所は困るだろな~(^o^)/
またまた難しいテーマですね。
返信削除自分の考えはうまくまとめられないので今日は2つの善悪に対する価値観を持った世界について駄弁ります。
一神教の元となったといわれるゾロアスター教では善悪ははっきりしてます。何せ、世界の展開はこの2神の戦いなんですから。
「聖典」「聖職者」によって善悪は明らかにされるのでしょう。
だから一神教世界の人は善悪に関してはある意味悩まなくてお気楽ですね。
対し、いま私が取り上げている中世日本、多神教世界でもあり、価値観は多様でした。
善悪は「穢れ」ととらえられていた節があり、禊、祓で清められれば善に戻ると思われています。そうすると人の本質は中立的なものか善なのかということになります。
「正義」に関してはこれはもう人の数だけあるんじゃないでしょうか。
中世日本やヨーロッパの屈強だけど単純な頭を持った武士・騎士が、我こそ正義なり、と馬にまたがって戦いに参加する姿は凛々しくて、過去の歴史ものだけに魅かれますね。
ゾロアスター教といえば、以前住んでいた県営住宅で、徳大医学部に研修に来ていたイラン人と話をしたとき、イラン人の宗教はゾロアスター教で、拝火教だと言っていました。真言密教の護摩を連想しましたが、ルーツはヴェーダ聖典に出ているバラモン教の儀礼と似ているので、根源はインドかなという感じでした。
返信削除善と悪は、精神と物質の関係に近いと思います。表と裏の関係です。物質の方向しか見えない人類は、精神的な方向を善と見てバランスを取ります。もうすぐ方向性が反転するので、どうなるかは見ものですね。(^.^)